第4章 / 第1節 趣味の重要性 Significance of Hobby

履歴書の項目が典型的ですが、人物を特定・紹介・認識する場合、人種・性別・年齢などの動物的分類と、職業・資格・所属団体など社会的分類を中心に行われます。美人やイケメンなどの外観的分類は、時代や地域で基準が異なり、さらに主観が強い相対評価となるため、公には用いられません。

 

これらの項目は、人物をザックリ分類して、ステレオタイプで認識するには有効ですが、人となりを十分掘り下げることはできません。そこで登場するのが、趣味・特技という嗜好的分類なのです。プロ選手でなければ、オリンピック金メダリストも、その事実はこの項目にしか該当しません。

 

一般的に、趣味には対象の制限がありませんが、特技はその中でも、何らかの体系的な技能習得で高いレベルに達した対象に限られます。ここでは他分野も含む本格的な「趣味学」は展開しませんので、「モデルカー学」においては両者を区別せず、趣味という名称に一本化して論じます。


Artwork   Lotus Sport Exige 2005

作品紹介 ロータス・スポーツ・エクシージ 2005年

1/43 Lotus Sport Exige 2005  ロータス・スポーツ・エクシージ 2005年

Description
Anthony Colin Bruce Chapman started racing engineering with his modified Austin 7 and first named his 2nd modified car as "Lotus" MkII in 1949. He established a company Lotus in 1952 and entered F1 in 1958. With Jim Clark driving, Lotus won its first F1 World Constructors' Championship in 1963. The letters of ABCC in the Lotus emblem stand for initials of the founder, which originated the Lotus tradition to name marques starting from E as the next alphabet. In 1966, its first mid-engined Europe enjoyed a great success but sudden death of Colin in 1982 caused financial difficulty. Finally in 1995, typical lightweight sports car of Lotus named Elise saved the company. Its pure racing version Sports Elise was re-designed as a road going coupe Exige in 2000, and its GT2 spec racing car is this Sports Exige in 2005. 

 

作品解説
自ら改造した車でレース活動を開始したアンソニー・コーリン・ブルース・チャップマンは、1949年の2台目レースカーに “ロータス” マーク2と命名します。本格的な活動のため52年にロータスを起業し、58年にF1初参戦を果たすと、63年にはジム・クラークを擁してF1コンストラクターズ・チャンピオンに輝きました。エンブレム内のABCCは自身の頭文字で、市販車名を次のEから始める伝統もここに由来します。F1で培った技術を導入し、66年の欧州大陸向けロータス・ヨーロッパ(初ミッド・エンジン車)で大成功を収め、順調に事業を拡大しますが、82年のコーリン急逝などで経営難に陥ります。紆余曲折の後、経営危機を救ったヒット作が95年のエリーゼです。救世主はロータスの代名詞ライトウェイト・スポーツカーでした。そのレース専用車スポーツエリーゼを市販化したロードカー・クーペが2000年のエクシージで、そこから再びレースカーへと発展させたGT2仕様車が、2005年のスポーツ・エクシージです。わずか850kgの車体に400psのGM製3リッターV6レーシング・エンジンを搭載しています。



思いのままの自己実現


趣味人は宇宙人?

宇宙論に立てば、生命の存在自体が奇跡に近く、地球上の生命を人間が論じること自体、あり得ない事象に関する空虚な議論に他なりません。宇宙からしたら余計なお世話、取るに足らない自然現象の一つでしょう。つまり、宇宙論における絶対的な「正義」や「大義名分」は存在しないということです。

 

肉体を酷使し、精神を痛めながら日々の生活に追われる私達は、人類の歴史においても所詮現代の、しかも特定地域・社会の価値観や状況に支配されているに過ぎません。過去に戻ることはできないし、未来を生きることもできないのです。もちろん、他人の人生を生きることもできません(成りすましても自分だから)。

 

郷土出身の幕末の志士・坂本龍馬が命を賭して実現を目指した社会が、この現代日本なのかどうかは分かりません。私は龍馬歴史館にも携わった関係で、時々「龍馬に胸を張れる人生か」と自問自答することがありますが、歴史の主役はその時代を生きている私達 “現代人” なのです。歴史上の偉人に気兼ねは要りません。また、たとえ死者の魂が心霊現象になって現れたとしても、今の時点で最強なのは “生きた人間” なのです。霊魂を敬畏しても、怖れる必要はありません。

 

そもそも地球を含む宇宙そのものが不変ではなく、やがて消滅するかもしれない存在です。そこに絶対的な「価値」などありません。絶対的な「基準」もありません。1人1人が唯一拠り所にできるモノは、そう、今を生きる「自分自身」なのです。自分の心の宇宙に目を凝らし、耳を澄まし、そこから湧き出る情熱を価値基準として行動する、それが『趣味人』です。

情熱の行方

今を生きる私達は、人生において1人1人が価値判断を下し、自ら対象を選んで情熱を注いでいます。何に対し、どのような情熱を、どの程度注ぐかによって、その行為の名称や位置づけが分かれます。幾つかのキーワードをフィルターに使い、複数の角度から考察して、趣味の本質に迫ります。

人間らしさ

紀元前の中国の古典『管子』に、「衣食足りて礼節(栄辱)を知る」とあります。20世紀においても、人間性心理学のアブラハム・マズロー(1908-70)は、人間は基本的欲求を満たした後に自己実現へと向かうと仮定しています。そんな理論を知らずとも、誰もが実感していることではないでしょうか。

 

生命の維持に関わる基本的欲求は、人間以外の生物でも同じです。つまり、衣食足りた後の行動にこそ、高度な知的生命体としての人間らしさが現れます。趣味と言うと、社会の役には立たず、無くても困らない娯楽だと思われがちですが、そもそも趣味を追求できる環境は社会が成熟している証であり、他の動物には無い人間としての独自能力を発揮している状態だと言うことができます。

野心と好奇心

人間は飽くなき「向上心」に満ちています。基本的欲求が満たされる文明社会においても、もっと良くしたい、もっと発展させたいと、文化をさらに高める行為に情熱を注ぎます。その究極が、新しい科学技術の発明です。自分だけの世界に留めず、他者や社会に影響を及ぼすことが目的なので、原動力となる情熱は「野心」です。起業するのも同じ情熱です。

 

一方、他者や社会は眼中になく、自分だけの世界で何かを追究していく行為があります。発明の根幹ともなる学術的基礎研究などは、他者を意識する「野心」より、ただただ対象に向き合う「好奇心」が強くなければ成り立ちません。その対象について深く知り、自分自身で究めていきたいという心です。

 

体操やフィギュアスケートなど、自己表現形の競技種目では、トップ選手達は「自分の満足いく演技」を目指し、自分との戦いに集中します。オリンピック・メダリストのレベルまで行くと動機もやや異なってきますが、事の起こりは「好奇心(探究心)」という情熱に他なりません。

職業と趣味

自給自足の生活でない限り、人間は所属社会の中で何らかの役割を担います。その主たるものが「職業」です。社会の一員として、世の中に貢献する最大の手法です。同時にほとんどの場合で、その報酬を以って生活の糧に充てます。それ以外の面では、一口に「職業」と言っても内容・形態・品質などは一様ではありません。

 

それに対し、「趣味」は報酬を得ることが目的ではなく、自分の好奇心と探求心を満たす行為です。そのため、「職業」に携っている以外の時間や労力を費やし、往々にして「職業」で得た収入からの支出を伴います。労働の報酬から身銭を切り、対価を支払ってまで行いたい活動が「趣味」です。

人畜無害の魅力

好奇心に基づく趣味は、イデオロギーなど政治的思想とは縁遠く、ほとんどが社会的活動としての性質を持っていません。対象によっては、対立する所属団体同士が誹謗中傷を繰り返すような分野もありますが、多くは利害関係が絡んでおり、趣味ではなく職業(商売)に類する人達の都合です。

 

モデルカー趣味のように、独立性と知的水準の高い嗜好分野では、主観の違いも愉しむ対象であり、異なる主張で議論し合ってもお互いを認め、反目することはまずありません。

 

趣味は、社会における消費活動の一翼を担っているにもかかわらず、社会に対して主義主張をすることはほとんどなく、活動内容もほぼ人畜無害です。本質的に、自分の知的好奇心を満たすことが目的の行為だからです。

趣味の再定義

これまでのように社会的な機能に主眼を置き、職業との対立軸で趣味をとらえてしまうと、「趣味学」における趣味の本質はとらえられません。そこで個人の情熱に主眼を置き、対象との関わり方を軸に、趣味という仮称の人間行為(名称は何でも構わない)について、再定義を試みます。

ネイティヴ・イングリッシュ

英語や日本語など、言語の技能レベルの尺度に、「ネイティヴ」という表現があります。一口で言うと母国語レベルという意味です。例えば日本に居て、後天的に英語を学習する場合、私達でも「ネイティヴ・レベル」に到達できるのでしょうか?その場合、何が必要だと思いますか?

 

切り口を変えましょう。日本で生まれたけれど、長い間海外で育った帰国子女や、仕事などで海外に移住して長い日本人の操る日本語は、今でも「ネイティヴ」でしょうか?分類は母国語かもしれませんが、品質は違うことがあります。

 

言語は特定の社会におけるコミュニケーション・ツールです。実は単独で存在しているのではありません。その国・地域・社会における文化・歴史・思想などを背景に成り立っています。その言語を駆使するには、背景となる気候風土や価値観、日常の生活様式、ものの見方や考え方まで身に染み付いていなければならないのです。

 

私達が母国語とする日本語においても、個人や状況によって、同じ表現でも込められた真意は異なる場合があります。言語そのものが変われば尚更です。特定言語の「ネイティヴ」であるということは、その言語が生み出された社会や価値観や行動様式など、果ては気温や空気感に至るまで吸収・体現できた上で、言語を操っているレベルのことです。

 

そのためには “現役” であることも必要です。言語がコミュニケーション・ツールである限り、時代の変化に応じて言語そのものが変化・発展し続けます。20年前に海外移住した日本人は、往々にして20年前の日本語しか使えません。属す社会が “現役の日本” ではないからです。従って、言語品質としては、もはや「ネイティヴ」ではありません。

 

言語はまじめに学習すれば、必ず上達します。しかし、言語が属す社会に全方位で包まれなければ、つまり見るモノ・聞くモノ・感じるモノ全てがその社会のモノでなければ、「ネイティヴ」品質には至らないのです。

生業と本業

あなたは、今の職業におけるネイディヴですか? それとも、生活の糧を得るためだけに働いていますか? 身分制度がほぼ無い現代日本では、職業選択の自由があります。つまり、職業は永遠ではなく、単純に職業だけで人物の特質を表すことはできません。勤務時間の間だけ、対価に見合う労働を提供する働き方が存在するからです。それはお金をもらうための行為であり、「自分がお金を払ってでもやりたい」行為ではない場合がほとんどです。

 

その代表格がパートやアルバイトと呼ばれる働き方ですが、これは勤務時間や雇用形態などで定義される分類ですので、考察からは外しましょう。では、サラリーマンや会社員という表現はどう思いますか? 便利な区分ですが、職業の名称としてはあんまりでしょう。会社の従業員という意味だけで、職業としての専門性はこれっぽちも表現していません。

 

物事の品質を問うには、必ず専門性という着眼点が必要です。何の “プロフェッショナル” であるかということです。医者や弁護士など、免許資格を以って自律的に事業を営む者をそう呼びたいなら、“スペシャリスト” と言い換えてもかまいません。私なりの表現だと、「何のネイティヴたり得るや?」ということです。その切り口が、「生業」と「本業」です。

 

「生業」とは、生活の糧を得るための行為です。形態や品質を問わず、報酬を得られるかどうかです。団体の理事や名誉職でも、報酬ゼロなら「生業」ではありません。サラリーマンや会社員という表現は、強いて言えばこの分類です。

 

一方、「本業」とは、その道のスペシャリストである行為です。自分自身の先天的な優位性を活かした上で、特定の時間だけでなく常日頃からその道の基準や価値観、モノの見方・考え方で社会と接し、諸現象を理解し、後天的な自己研鑽を加えて、新しい価値を創造しようとする行為です。その道において、ネイティヴだということです。

 

両者は決して相容れないものではありません。職業として、または人生として理想的なのは、『本業を以って生業となす』ことです。マイスター制度の成熟した職人の世界などは典型的な成功例ですが、一般的に理想の実現は困難です。

 

私自身も、40歳にして「これだ!」と明確に見極めた「本業」がありますが、転勤や異動の多い会社勤めでは、必ずしもその「本業」を発揮できる職務を担当できません。独立すればいいようなものの、成功するには他に経営者としての才覚が要求されるため、踏み切れないのが現実です。

道楽と趣味

世の中、特に身内(親戚・家族)においては、生業以外は「趣味」と認識され、どちらかというと “マイナス事” として扱われます。それは「趣味」が、価値の無いモノに対する金銭や時間の浪費だと思われているからです。

 

人間は生きていくだけで、家賃や食費・水道光熱費、税金や社会保障費など、膨大な金額を支出します。その上で、より高度な人間的活動である「趣味」に取組む訳ですから、お金が掛るのは当然です。大目に見て欲しいものです。

 

着眼点は、費用に対する “行為の品質” です。例えば、「お金が有るから(無くても)豪遊する」、「成り上がったからスーパーカーを買う」などは、本業を追究する「趣味」ではなく、本業と関係のない「道楽」です。両者の区別が曖昧なため、浪費が付き物の「道楽」のマイナス面が、高度な知的活動である「趣味」にまで影響を及ぼすのです。「趣味」に働くベクトルは「道楽」と真逆で、消耗(浪費)ではなく蓄積(探究)です。

全人的な本質表現

世の中で思われている「趣味」の意味を一旦忘れてください。その上で、『趣味学』における「趣味」の本質を再定義するならば、『本業として純粋に情熱を注ぐ行為(及びその対象)』だと言えます。対価の有無や、義務や責任などは考慮しません。生まれて死ぬまでの100年間足らずの間で、その人が何に対してどれだけ情熱を注ぎこむか、その行為そのものを指します。

 

『知的好奇心に基づく自己実現の手法(及びその対象)』と言ってもいいかもしれません。自分の全人的な本質の表現です。つまり、「あなたは誰?」と聞かれた時に、「私は〇〇です」と趣味人としての呼称を用いる訳です。それが職業に合致していれば、「医者です」「芸術家です」「実業家です」などと答えられるし、そうでなくても「研究者です」「武術家です」「情報企画者です」「モデルカー・コレクターです」などと一言で断定できる訳です。

自分の人生を生きる

趣味人として生きるということは、情熱を注ぐ対象が何であれ、自分自身の好奇心に基づき、自律的に人生を歩むということです。自由気ままに聞こえますが、自律的ということは、自分で発想・企画し、最後まで自分自身で責任を負うということなので、容易い話ではありません。事の成否を気にしてしまえば、何事にもチャレンジすることなく人生を終えてしまいます。難しいですが臆することなく、新しい一歩を踏み出すことが重要です。

肩の荷を下ろす

自分の人生を精一杯生きるには、少なくともご先祖様に対し最低限の責任を果たしておかなくてはなりません。受け継いだDNAを後世に残しておくことです。長男一人っ子の私は、1993年にオランダで長男が誕生したことで、一つ肩の荷を下ろしました。あとは孫の顔を見れば完璧です。

 

そうなると、健康さえ維持していけば、人生の活動期として与えられた時間は約50年あります。私はモデルカー・コレクター歴25年なので、あと25年間は頑張れます。そうは言っても、高々50年、人生は短いですね。

人生は自己満足

野心を以ってその50年を幾ら頑張っても、世の中に歴史的規模で貢献できる人物はほんの一握りでしょう。科学技術が日進月歩・秒速分歩だとしても、自分の50年間で社会に革命を起こすくらいの大偉業を成し遂げるのは困難です。

 

しかし、子子孫孫と時代を重ね、100年・300年・500年・1000年後の未来には、自分のDNAを宿した未来人が、世の中を大きく変革しているかもしれません。そう思えば、子孫を残しただけでも生物個体としては大偉業を成し遂げた訳です。人類の発展は未来に託すしかありません。所詮死んでしまえば、どんな偉人であっても後世をコントロールすることはできないからです。

 

そう思えば、人生の気が楽になるのではないでしょうか。正に趣味人の如く、自分の内面から湧き出る好奇心を頼りに、自分自身が納得・満足することを目指し、片意地張らずに有意義な人生を送ることができます。「社会のために」「他人のために」という動機づけもありますが、結局はそうしたい自分を満足させているに過ぎません。他人に迷惑さえかけなければ、全人口1人1人が自己満足することで、全社会が満足できるはずです。

複眼を鍛える

自分が携わっているのは生業か本業か? それを簡単に判定できる方法があります。言い換えれば、今の人生に満足しているかどうかという判定です。

 

決して、責任感や義務感から来るものではなく、(会社員の場合)毎日出社するのが楽しくて仕方ないかどうかです。楽しいと、朝いくら早くても、夜いくら遅くても関係なく、時間の観念を失います。土日でも、休んで他のことをする時間がもったいなく感じられます。だとしたら、その事柄はあなたの本業である可能性が高いでしょう。一方、朝はギリギリまで寝たい、とにかく土日の休みが楽しみ、休みのために平日働いているというような感覚があるなら、それは生業です。自分自身の人生を生きていない可能性が高いでしょう。

 

だからと言って、転職したり起業したりするのは現実的に困難です。その場合、取りあえず2つの方法をお勧めします。1つ目は、自分から能動的に何かを提案するということです。与えられるだけの人生だから、自分らしさを失ってしまいます。2つ目は、心から楽しいと思える(没頭できる)モノを発見することです。新しく趣味を1つ持つだけで、新しいモノの見方・考え方に触れることができます。

 

視点を変えるということは重要で、今まで見えてこなかったモノが見えるようになります。これは心の問題、気持ちの持ち様だけの話ではありません。1998年に帰国し、たまたま近所のコンビニで手に取って大ハマりした『マジカル・アイ』という近視矯正本があります。1枚の絵を見ていて、視点を奥にずらすと、今まで見えなかった文字や形状が浮かび上がるのです。視点を変えることで、見えなかったモノが見えるようになることを物理現象として実証しています。

 

1つの価値観に縛られず、複数の視点を以って自分の人生を見つめ直すことのできる “人畜無害な特効薬” が趣味です。複眼を鍛える中で本業に出会い、それを生業にすることが出来れば、満足度の高い人生になるでしょう。

理論武装

趣味を実践する上で、最大の壁は何でしょうか? ほとんどの趣味人が体験されていると思いますが、「敵は身内にあり」です。身近な人々にこそ趣味と道楽が混同され、その道を追求すればするほど家族からは疎まれます。

 

分かり易い例があります。モデルカー・ショップから郵送で自宅に届いた箱や、私の部屋に積み上がった段ボール箱のことを、妻は「荷物」と呼びます。丁寧に言うと「お荷物」です。表現が根本的に間違っています。これらの箱は全て「お宝」です。

 

存在しない訳ではありませんが、夫婦揃って、家族揃って、同じ趣味(本業)に没頭できる境遇は奇跡と言っていいでしょう。趣味人は、そうでない前提で、本業を全うする方法を編み出さなくてはなりません。積極的に応援してもらえなくても、妨害したり足を引っ張ったりしない “消極的な協力関係” を勝ち取るのです。

 

そのためには理論武装が必要です。趣味人なら、趣味の重要性を易しく語り聞かせられるだけの、論理的な説明能力も養っておかなくてはなりません。以下の説明は、全て私の得手勝手論法ですが、皆さんが実践される趣味の手助けとなれば幸いです。

脳の活性化

ヨーロッパ駐在中から帰国後も、私は主に事務仕事を行っています。扱うモノは言語が中心であり、さらに義務感や責任感を伴うため、主に使用するのは「左脳」です。勤務中、業務に没頭すればするほど、「左脳」は酷使され、疲労は蓄積されます。

 

疲れ果てて帰宅しました。そこで趣味に没頭すればどうなるでしょうか。モデルカー趣味などは典型ですが、他にも文化的な趣味は多くのビジュアルを伴います。しかも、自らの好奇心に基づき、開放的に愉しみます。

 

するとどうでしょう。趣味に没頭している間は「右脳」が活性化するのです。つまり、その間「左脳」は十分休息を取ることができます。脳と言えども肉体の一部です。片側だけを酷使し続ければバランスが悪くなり、何らかの機能に障害が生じるかもしれません。休息は明日の活力につながります。

 

つまり、仕事以外で趣味に没頭することは、決して趣味自体のためではなく、明日の仕事のパフォーマンスを高めるための、頭脳力の充電行為だということです。

 

この「左右脳の健全化」という理論武装は、あくまで頭脳労働を仕事にしている場合に限ります。肉体労働の場合は、肉体と精神(頭脳)のバランスというような切り口で、再理論武装する必要があります。

コレクターのDNA

私は世界トップレベルの趣味がモデルカーなだけで、その他にも多くの趣味があります。ただ、大半がモノを集める性質、つまり “コレクション” するという分野です。家族にとって一番疎ましい分野でもあります。従って、「何故、人はモノを集めるのか」という議論にも、しっかりと理論武装しておかねばなりません。

 

そもそも、人は何故モノを集めるのでしょうか。それは、哺乳類としてのDNAに刻まれた特質だからです。太古の昔、人類のご先祖様は、鼠のように小さく非力な哺乳類でした。大型肉食獣の脅威から逃れ、冬の食糧難を克服するには、その時々の食物を巣に集めていかざるを得ませんでした。それが生きるという行為そのものだったのです。

 

私たち人類が哺乳類である限り、ご先祖様から受け継いだDNAが、「モノを集めろ、収集しろ」と指令を出すのです。限りなく生存本能に近い特質であり、その指令に素直に従うのが人間らしさです。コレクターとは、凄く “人間らしい存在” なのです。

 

だから、ガンジーのようにモノを持たない、執着しないという人生は稀有なのです。人間としての本性に反する行為だからです。それゆえ、偉人として称えられるのです。これは仏教でも同じで、私利私欲を捨てる、煩悩を振り払うなどは、人間の本性ではありません。だから困難だし、尊敬されるのです。だからと言って、人間の本性に従うコレクター人生を恥じる必要は無く、逆に人間らしさとして誇るべき事柄なのです。

マニアが世界を救う

職業・非職業、金銭・報酬の有無などを問わず、本業を徹底的に追求し、高いレベルに到達した人物を、「マニア」と呼びます。俗に言う “仕事人間” はその職業の「マニア」です。もちろん、趣味人の中でも練達・目利きは「マニア」です。

 

近年はメディアなどでも、その事柄を生業としている職業人より、深い造詣を持った趣味人「マニア」が表舞台に登場するようになりました。彼ら彼女ら「マニア」の社会的意義は、その世界の面白さ・愉しさ・奥深さなどを一般の人々に向けスペシャリストとして情報発信できるということです。本ウェブサイトも、私の「マニア」活動の一環です。

 

コレクターというのは、「マニア」の中でも、モノの収集を主な活動内容としている人達のことです。知的好奇心・探究心を持った上に、収集という哺乳類のDNAを行動に移している、限られた種類の「マニア」に与えられた称号です。

 

職業においても、発明や技術革新など、世の中に大きな影響を与える人達は、往々にしてその事柄の「マニア」です。つまり、本業を徹底的に追求して、そこに至っている人達です。反対に、経済活動を支える側の人達も、膨大な額の費用を支出する消費者は、往々にしてその事柄の「マニア」です。

 

資本主義の社会では、生産活動と消費活動が高度に噛み合ってこそ、経済活動が促進され、文化の発展にもつながります。つまり、現代社会、そして未来の世界に大きな影響を与えていく新しい “種族” が、正に「マニア」なのです。「マニア」であることに誇りを持って、趣味道を邁進していきましょう。