Bob Wallace / ボブ・ウォレス氏


ランボルギーニ伝説を創ったテスト・ドライバー


ここで1人、決して “カー・デザイナー” とは呼ばれていない人物を紹介します。彼の名はボブ・ウォレス。ほとんどの場合、“テスト・ドライバー” 又は “メカニック” として紹介されています。その彼が何故、名立たる天才カー・デザイナー達と肩を並べて認識されているのでしょうか。

 

これぞ、“得手勝手” 趣味学講座の真骨頂です。何と言っても彼は、私が40年以上ずっと大好きなランボルギーニ・イオタの製作者だからです。イオタは私にとってスーパーカーの原点です。彼の偉業が無ければ、『世界モデルカー博物館』も、この『モデルカー学』も存在していなかったことでしょう。

デザイナーの基本情報

Personal Profile / 人物プロフィール

Name / 氏名 Bob Wallace ボブ・ウォレス
Born / 生誕 4 October, 1938 / Auckland, New Zealand 1938年10月4日 / ニュージーランド、オークランド
Died / 死没 19 September, 2013 (Age of 74) / Phoenix, Arizona, USA 2013年9月19日(享年74)/ アメリカ、アリゾナ州、フェニックス
Occupation / 職業 Test Driver, Automotive Engineer, Race Mechanic, Workshop Owner テスト・ドライバー、自動車エンジニア、レース・メカニック、整備工場経営者
Organisations / 関連団体 Camoradi USA, Scuderia Serenissima, Maserati, Automobili Lamborghini S.p.a,
Automobili Lamborghini SpA
Bob Wallace Cars Inc
カモラーディ、セレニッシマ、マセラティ、アウトモービリ・ランボルギーニ、ボブ・ウォレス・カーズ

Personal History / 人物の略歴

1938年、ニュージーランドのオークランドで生まれたボブ・ウォレスは、幼少期から自動車に強い関心を抱いていました。やがてニュージーランドでもモータースポーツが盛んになり、ヨーロッパからワークス・チームが訪れるのですが最小限のクルーであることが多く、ボブはマセラティに臨時メカニックとして雇われることになりました。レース・メカニックとしての技術が認められ、彼はイタリア・モデナ行きを勧められます。

 

60年にイギリスのロータスを経て、翌年イタリアに渡ったボブは、マセラティやフェラーリなどのレースカー・メカニックとして実績を上げていきます。マセラティがワークス体制によるモータースポーツ活動を休止すると、ジャン・パオロ・ダラーラがマセラティを離れ、ランボルギーニのチーフ・デザイナーに就任しました。ジャンに誘われた形で、ボブも64年にランボルギーニへと移籍します。同社設立の翌年のことです。

 

当時はランボルギーニ第1号車の350GTV(プロトタイプ)から、生産第1号車となる350GTを開発しているところでした。自称 “トラブルシューター” として参画した彼は、他に適任者が居ないという理由で、ある日突然チーフ・テスト・ドライバーを任されます。レーサー経験は無いものの、実際にレースカーを走らせ整備していた経験が大いに活かされ、プロトタイプ・スーパーカーを磨きあげる役割を果たしていきました。

 

ボブは、ミウラやカウンタックを始め、ランボルギーニ創成期に数々の車種をロードテストし、生産車開発に貢献しました。その結果、フェルッチオ公認の下、個人的な開発プロジェクトが許され、イオタを含む計3台のコンペティション・モデルを製作します。74年に創業者フェルッチオが退くと、翌75年にボブもランボルギーニを去り、アメリカに渡って終生スーパーカー整備工場を営みました。2013年死去(享年74)。

代表的なデザイン作品

ボブの設計上の特徴は、ロードカーの開発プロトタイプを基に、各部を造り替えてコンペティション・モデル(レース仕様車)を製作する手法にあります。創成期のランボルギーニは、レース活動を行わない方針だったため、一流のテスト・ドライバーが施すモディフィケイションは、ロードカー・ユーザーにとって非常に魅力的に映ったことでしょう。

 

また、いずれも社内の個人的なプロジェクトであり、元々公にしたり一般販売する予定はありませんでした。だから、モーターショーなどでもお披露目されていません。デザイン・スタディやコンセプトカーではなく、ワンオフのGTレース用実験車といった感じです。しかし、ランボルギーニはレース活動しませんので、その方面でも公表されない存在だったのです。

Lamborghini Jota (Original J) / ランボルギーニ・イオタ(オリジナルJ )1970年

1/43 Lamborghini Jota (Original J) / ランボルギーニ・イオタ(オリジナルJ )1970年

ランボルギーニは、1966年のジュネーブショーで自社初のミッドシップ車であるミウラP400を発表します。マルチェロ・ガンディーニ作の流麗なボディとは裏腹に、エンジニアリングはレースカーそのものでした。元々レースカーを造りたくてイタリアに渡ったボブは、フェルッチオに特別の許可を得て、1970年にミウラのレース仕様車をワンオフ製作します。

 

ボブの “個人プロジェクト” ならが、ランボルギーニ公認のコンペティション・ミウラとなったこの車は、フェルッチオによって「J(イオタ)」と命名されました。名前の由来は、FIA(国際自動車連盟)の競技規定付則J項を指し、そのプロトタイプ・クラス車両規則を満たす実験車両という意味です。イオタとはラテン文字「J」のスペイン語発音に由来します。

 

ミウラとの外観上の違いは、固定式ヘッドライト、チンスポイラー、追加されたエア吸入・排熱口、張り出したリアフェンダー、ホイール、アルミ製ボディを固定するリベットなどです。前後カウルはヒンジを持たず、レースカーのように分離します。美しいミウラのフォルムに、レーシング仕様という造形上のスパイスが加わり、イオタの特別感を演出しています。

 

イオタ(オリジナルJ) は1971年に全損事故で失われますが、ボブの創り上げた “レーシング・ランボルギーニ” は伝説となり、その後十数台のレプリカ(SVJ、SVRなど)が製作されました。1/43モデルカーではイオタ人気の強い日本市場を発信源とし、オリジナルJもレプリカ・イオタも、複数のメーカーからほぼ全てのバージョンが発売されています。

Lamborghini Jarama RS (Rally Sperimentale) / ランボルギーニ・ハラマ RS

1/43 Lamborghini Jarama RS (Rally Sperimentale) / ランボルギーニ・ハラマ RS

イオタを失ったボブは、再びワンオフのコンペティション・モデル製作に着手します。ベース車はハラマ(正確には1972年に発表されたハラマS)で、V12 フロント・エンジン 2+2という実用車ながらホイールベースはミウラや後のウラッコより短く、フェルッチオ自身の愛車でもありました。

 

ボブはエンジン位置を手前に寄せ重量配分の適正化を図り、各部にアルミを多用してボディを軽量化、ヘッドライトの固定化やチン・スポイラーの追加などを施しました。ホイールはミウラと同じカンパニョーロ製です。この1/43モデルは、PMA社のダイカスト製ハラマをモデラーが改造した作品です。市販はされていません。

Lamborghini Urraco Rallye / ランボルギーニ・ウラッコ・ラリー

1/43 Lamborghini Urraco Rallye / ランボルギーニ・ウラッコ・ラリー

ランボルギーニは、1970年に自社初となるV8縦置きミッドシップのウラッコを発表(発売は73年)します。その試作3号車(71年製)を用いて、ボブは3台目となるコンペティション・モデル、ウラッコ・ラリーを製作しました。

 

220psから310psへの出力アップ、2+2の2シータ-化と軽量化、チン・スポイラーと大型リア・ウィングの追加、オリジナルJと同型ホイールの装着などが行われました。写真の1/43モデルは、日本のヨウ・モデリーニ製です。他にイタリア・ルックスマートからも発売されています(赤ボディ版も有り)。